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岡本太郎 -76「今日の芸術」 [TARO]

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昭和二十九年八月(1954.8) 光文社刊  定価270円

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時代を創造するものは誰か

芸術は、ちょうど毎日の食べものと同じように、人間の生命にとって欠くことのできない、絶対的な必要物、むしろ生きることそのものだと思います。

ひとがやったこと、あなたは全人間的にそれに参加してはいない。けっきょく、「自分」は不在になってしまう。空しさは、自分では気がついていなくても、カスのようにあなたの心の底にたまっていきます。

それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう。現代の人間の不幸、空虚、疎外、すべてのマイナスが、このポイントにおいて逆にエネルギーとなってふきだすのです。

失われた自分を回復するためのもっとも純粋で、猛烈な営み。自分は全人間である、ということを、象徴的に自分の姿の上にあらわす。そこに今日の芸術の役割があるのです。

すぐれた芸術家は、たくましい精神で、つねに前進し、新しい創造をしています。当然、それは持ち合わせの常識では、ただちに判断できません。自分のつねに固まってしまう見方を切り捨て切り捨て、めげずに、むしろ相手を乗り越えていくという、積極的な心構えで見なければ、ほんとうの観賞はできません。

「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの—自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっているばあいがあるということを、十分に疑い、慎重に判断すべきです。

芸術は、絶対に新しくなければなりません。芸術はいつ、いかなる時代でも、新しいという意味で、大きなあこがれでもありました。と同時に、それがために、まえに述べたように、きわめて残酷に非難されてもきたのです。芸術家は、それぞれの時代の正反対の評価、矛盾に耐え、勇気と英知をもって、それを乗り越えてきたのです。

ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花をちらすのです。


今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と、私は宣言します。


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「コンポジション」表カバー(1954)


現在のわれわれに、暴力的にはたらきかけてくればこそ、いやったらしい。だからこそ強烈に惹きつけられもし、また、同時に反発したり嫌悪したりするのです。しかし時代がたって、その裂け目がうずめられてしまうと、あれほどいやったらしかったものが反対にほほえましくなってしまう。真に現実に生きている芸術だけが、いやったらしい。

絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。

鑑賞がどのくらい多種多様であり、それがその人の生活の中にはいっていくばあい、どんなに独特な姿を創りあげるか。それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描きあげられたことになります。さらにそれは、心の中のその精神の力によってつねに変貌し創られつつあるのです。この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。

今日、私が「セザンヌは下手くそだった」などと言うと、日本の文化人諸氏から「また、あんなえらそうなことを言って、岡本太郎のやつ、生意気だ」と悪口されるかもしれませんが、そういうご当人たちがもし60年前のフランスにいて、セザンヌをいまのようにほめたとしたら、彼らは、一人のこらず、セザンヌ同様、狂人扱いされたにちがいありません。

周囲も許したし、またセザンヌ自身も気がねやひけめを持たずに、堂々と自信をもって一生おのれを貫いたわけです。つまり、個人の自由を自他ともにみとめ、許したという市民社会の新しい雰囲気、これこそセザンヌがあのような大芸術家として、市民芸術を完成した絶対的条件です。


ピカソ自身が「私は、日ごとにまずく描いてゆくからこそ救われてるんだ」

とズバリと言っていますが、ただ彼だけの問題ではなくまさに現代芸術の本質を自分自身に表している明快な言葉です。


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著者とピカソ カバーより           「泣く女」ピカソ(1937)「今日の芸術」復刻版(1999)


芸術は、いわば自由の実験室です。実社会で、いきなり貫きとおすということは、いろいろな障害や拘束があって容易なことではありません。しかし芸術の世界では、自由は、おのれの決意しだいで、今すぐ、だれにはばかるところもなく、なにものにも拘束されずに発揮できるのです。

すぐれた芸術家の作品の中にある爆発する自由感は、芸術家が心身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得する。ますます強固におしはだか り、はばんでくる障害をのりこえて、うちひらく自由感です。抵抗が強ければ強いほど、はげしくいどみ、耐え、そのような人間的内容が、おそろしいまでのセンセーションとなって内蔵されているのです。

芸術は創造です。これは、けっして既成の型を写したり、たとえ自分自身の仕事でも、二度と繰り返してはならない。昨日すでにやったことと同じようなことをやるのでは、意味がないのです。

考えてもごらんなさい。ピカソにせよ、マチスにせよ、彼らが二十世紀芸術のチャンピオンとして、真に世界にかがやくピカソ、マチスになったのは、いずれも二十代・三十代の若き日においてです。年季なんかあるはずはありません。

私は謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは絶対にない、むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します。
つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、自分自身にたいしてこそ、そうあらねばならないことなのです。

「お互いに」とか「みんなでやろう」とは、言わないことにしなければいけません。「だれかが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、 いつかきっとそうなる」「徐々に」という、一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければならないのです。

自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです。


こんにちのげいじゅつ


岡本太郎 -39「縄文土器」


コメント(2) 

コメント 2

スギメチャ

こ、こんなにいっぱい文字が・・・
と、とてもじゃないですが読みきれましぇん。(^^;ゞ
by スギメチャ (2016-10-31 20:26) 

gop

> スギメチャさん
写真だけだと間が持たないんですよねー。

by gop (2016-11-01 06:35) 

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